歴史ぶらり旅
2011.09.09

第2回「明治神宮とキャットストリートの意外な関係ってなに?」

明治神宮とキャットストリートはつながっています。
しかも、トンチでも何でもなく、二つは物理的に確かにつながっています。

と、いきなり「何のこっちゃ???」な書き出しでどうもすいません。



キャットストリートの正体は?

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明治神宮とキャットストリートをつなぐ一つ目の鍵は、キャットストリートの成り立ちにあります。

キャットストリートは、神宮前6丁目の宮下公園交差点付近から、神宮前3丁目の渋谷区障害者福祉センターまでを、明治通りに並行するように走る道路の通称です。
正式名称は「旧渋谷川遊歩道」。その名が示すとおり、キャットストリートは、かつて川でした。古くは「穏田川」とも呼ばれた「渋谷川」がこの地を流れていたんです。
その「渋谷川」がこの地から姿を消したのは、東京オリンピックを目前に控えた昭和37年(1962年)から昭和39年(1964年)にかけてのこと。以前から生活排水による川の汚れが指摘され、暗渠化して下水道にすることが計画されていたものが、オリンピック開催をきっかけに、一気に動き出したのです。
実は、キャットストリートの下にはいまも水が流れています。フタをされた川のことを「暗渠(あんきょ)」と言います。ただ、「渋谷川」は、フタをされた時点で川の地位を剥奪されて「下水道」になってしまいました。そのため、「“旧”渋谷川遊歩道」という名称になっています

いまも残る「渋谷川」と、同じ川なのに名前が違う「古川」
ちょっとややこしいのですが、「渋谷川」はいまも部分的に残っています。暗渠化されて下水道になった(地図に記した灰色の部分)のは渋谷川の上流部で、下流はいまも現役の「川」として残っています(同じく水色の部分)。渋谷駅の南、明治通りと山手線の間を流れているのが渋谷川の下流部です。
ですが、「川」とは言っても、渋谷駅付近は晴れた日には水量がほとんどありません。というのも、キャットストリートの地下を流れる水は、明治通りの地下に新たに作られた下水道の幹線につながっていて、普段は「渋谷川」には水が流れ込まないようになっています。大雨が降って下水が溢れたときだけ、「渋谷川」に水が流れ込む仕組みです。
現役の「渋谷川」をさらに下流にいくと、広尾付近の天現寺橋を境に「古川」と名前を変えます(地図の青色の部分)。ここは渋谷区と港区の境界でもあり、江戸時代の市中と郊外の境目でもありました。その昔、渋谷は郊外の村だったんですね。


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「キャットストリート」の名前の由来
「キャットストリート」の名前の由来には、次の3つの説があるようです。
1.猫が多い通りだったから
2.猫の額のように狭い通りだったから
3.「ブラックキャッツ」というバンドの発祥地だったから
「キャットストリート」はあくまで通称なので、誰が呼び始めたかを確定することはできませんが、こちらのサイトを見る限りでは、3の説が最も説得力があるように感じました。
ちなみに、この説明で登場する『原宿ゴールドラッシュ』、ピンクドラゴン、山崎眞行氏についてはこちらに分かりやすくまとめられています。まちに歴史あり、ですね。
http://uhphantom.blog104.fc2.com/blog-entry-28.html


キャットストリートと明治神宮のつながりって?

ここまでは、それなりによく知られた話。
「知ってるよぉ」と思った人もいるでしょう。

ここからが、いよいよ謎解きの本題です。
明治神宮とキャットストリートとつながりとは一体なんでしょうか?

「渋谷川」の本流にあたるキャットストリートには、いくつかの支流が流れ込んでいました。
片や明治神宮には、数年前にパワースポットとして名を馳せた「清正井(きよまさのいど)」があります。

キャットストリートの「渋谷川」と明治神宮の井戸――。
共通点は、「水」、ということは……?!


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そう、渋谷川にあったいくつかの支流の源は、明治神宮にあったんです。
明治神宮には、「南池」「北池」「東池」の三つの池があります。
かつては、この三つの池の水が全て、「渋谷川」に流れ込んでいました。「渋谷川」本流と同様、暗渠や下水道に姿を変え、部分的には流路を大きく変えたところもありますが、いまも「渋谷川」へと水路がつながっているんです。なお、「清正井」は「南池」の水源でした。

そこで今回のぶらり旅では、「渋谷川」の水源をこの目で確かめるべく、明治神宮を訪ねました。

いざ、明治神宮へ!

前置きが少々長くなりましたが、ここからがぶらり旅の本編です。

原宿駅を出て神宮橋を渡り、鳥居をくぐって南参道を社務所へ向かいます。
南参道を歩いていると、玉砂利を踏みしめる音と17万本あるという木々のそよぐ音が、都会の喧騒と暑さを和らげてくれます。

明治神宮の森は、明治神宮造営にあわせて植えられた人工の森です。
100年後、150年後を見越し、「永遠の森」を目標に植林の計画が立てられました。今年は造営から91年。100年を待たずにこれだけ立派な森が育っています。木々の力もすごいですが、ここに森が生まれたのは、100年の計を立てた人と、木々を守り育ててきた人がいればこそ。明治神宮の森は、とても大切なことを教えてくれているように思います。


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かつてのパワースポットはいま……

社務所で広報の方とご挨拶。まずは、パワースポットで名を馳せた「清正井」を案内していただきました。

「清正井」と明治神宮の歴史
「清正井」の「清正」とは、戦国時代の武将、加藤清正のことです。江戸時代のはじめ、明治神宮の一帯は加藤家のお屋敷(下屋敷)でした。そのときに清正が掘った井戸という言い伝えがあり、「清正井」と呼ばれています。ただ、広報の方のお話によると、「清正がこの屋敷で暮らしていたかは定かでない」とのこと。あらあら残念……。
加藤家は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての有力な大名でしたが、清正の死後、息子の代で領地を没収され、江戸の屋敷も召し上げられてしまいました。その屋敷を引き継いだのは、徳川家の譜代大名の井伊家です。井伊家と言えば、「ひこにゃん」擁する彦根城と、桜田門外の変で暗殺された大老の井伊直弼が有名どころです。
明治になって、多くの江戸屋敷が明治政府のものとなり、井伊家の下屋敷は皇室の御料地となりました。明治天皇と昭憲皇太后は、「南豊島御料地」と呼ばれたこの地を愛され、たびたび訪ねられたということです。明治45年(1912年)に明治天皇がお亡くなりになり、大正9年(1920年)、この地に「明治神宮」が造営されました。
参考 http://www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html

「清正井」は、明治神宮御苑(御苑維持協力金500円)の中にあります。
御苑は、加藤家、井伊家の屋敷だったころからの庭園です。明治天皇と昭憲皇太后は、御料地の中の御苑をこよなく愛されました。

「清正井」を拝観するためには、御苑北門から入苑します。歩くこと数分、目指す「清正井」に辿り着きました。かつては何時間も待つほどの行列になった時期があるらしいです。

広報の方のお話では、いまではそんなことはありません。この日も、数人が並んでいただけでした。

井戸からは、いまも毎分60リットルもの水が湧き出ています。手で触れてみると冷たくて気持ちがいい。この水が渋谷川にまで流れ込んでいきます。

咲き乱れる菖蒲にしばし見惚れる

「清正井」から湧き出た水は、明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたという「菖蒲田」を、ちょろちょろと遠慮がちに潤します。明治神宮を訪ねた6月下旬はちょうど菖蒲の見頃!咲き乱れる150種1500株の菖蒲に、しばし見惚れてしまいました。

多くの水をたたえる「南池」

水はさらに、「南池」へと流れ込んでいきます。菖蒲田では遠慮がちに流れていた水が、ここではゆったりと広大な水をたたえています。

気になるのはこの「南池」の先がどうなっているかです。池の流れは御苑の外に続いているということなので、御苑を後にしてその先を追ってみました。

「ちょっと寄り道」みたいな感じで

「南池」には、昭憲皇太后がコイ釣りを楽しまれたという「御釣台」があります。いまも池の中にはコイや亀などたくさんの生き物たちが暮らしています。

「南池」を見下ろす高台には、明治33年(1900年)に建てられた「隔雲亭」という御休処があります。明治天皇、昭憲皇太后が御料地を訪ねられた際、休憩される場所だったそうです。なお、現存するものは昭和33年(1958年)に再建されたもので、いまはお茶室として使われています。

御苑を出て南参道を原宿駅方面に向かって歩くと、右手に一本の木があります。、「代々木」の地名の由来になったという樅(もみ)の木です。ここに「代々」大きな「木」があったことから、「代々木」と呼ばれるようになったということです。
幕末の浮世絵師・歌川 広重が何代目かの「代々木」を描いていること、黒船の動きをここで見張った話が伝わっていることから、江戸時代には確実にすでにこの地に大きな木があったことが窺えます。
http://www.meijijingu.or.jp/qa/jingu/04.html

渋谷川につながる水路をついに発見!

「代々木」をさらに原宿駅方面に進むと、「神橋」があります。神様が通る橋、ということでしょうか。
この橋の両側に見えるのが、御苑の外に続く「南池」です。

下の写真が御苑内部、それにつづく池の先端です。池の先によぉく目を凝らすと、水路の入り口のようなものが見えます。写真では分かりにくくてすいません。「南池」の水量を考えると、ずいぶんと水が少なくなってしまったような気がしますが、たしかに水が水路に流れているのが分かります。

ここから、水は明治神宮の外へ流れ出ていきます。竹下通りの地下を通り、キャットストリートの暗渠へと水が流れていきます。
なお、かつては、ここから流れ出た「南池」からの支流は、「ブラームスの小径」や「フォンテーヌ通り(モーツァルト通り)」と呼ばれる道を流れていました。キャットストリートと同じ時期に暗渠となり、同時に水路は竹下通りの地下へと付け替えられました。
この道は、実際に歩いてみると、不自然なまでに細くうねっています。ここがかつて川であったことを静かに物語っています。

明治神宮縦断!「北池」の水源を探る

「南池」を後にして、大鳥居を横目に北参道を北へ、明治神宮を縦断して「北池」に向かいます。

「北池」は、南池に負けず劣らず大きな池です。池の東の端には、南池同様、水路の入り口のようなものがあります。ここから、この池の水が渋谷川の支流の一つへと流れ込み、キャットストリートへとつながっています。

ところで、この池の水はどこから来ているのでしょうか?北池の周囲には、池に流れこむ小川があります。「ひょっとしてここを辿れば……」、その水源を探ってみました。
頼りなげにちょろちょろと流れる小川を、流れと反対方向に歩くこと数分、小川は林の中に分け入り、流れを肉眼で確認することができなくなってしまいました。
広報の方も詳しくはご存じないとのことですが、この林の中から流れ出しているのではないかということです。

「東池」の流れる先は……

こんどは、明治神宮を横断して、東の端にある「東池」を目指します。途中、御社殿で一同参拝。最初にお参りせずにどうもすいません。

御社殿を東に抜けてさらに進むと、左手の柵越しに「東池」が見えてきました。
ここは、雨水がたまって池で、南池、北池ほど大きくはありません。ここでも、気になるのはやはり水路です。「柵の外からはなかなか見えづらい」と思っていたら、広報の人の計らいで、特別に柵の中に入れていただきました。

どうです?いままでの中で一番はっきりと水路の入り口が見えます。
ここから、かつては東郷神社(旧・池田屋敷)の敷地内を経て、竹下通り・明治通りを越え、渋谷川に流れ込んでいました。いまは、暗渠化・下水道化に伴い水路が変更され、渋谷区立中央図書館や原宿警察署の北を通って、キャットストリートの地下に注ぎ込んでいます。
ちなみに、東郷神社にある池は、「東池」から渋谷川に流れ込む支流が地上を流れていたころ、その水を引き込んでつくったものです。

川の痕跡はあちらこちらに


より大きな地図で 明治神宮とキャットストリートのつながり 全体図 を表示

ここまで紹介してきたことを、改めて地図で確認してみましょう。

こうして地図で見てみると、川がうねうねと蛇行しているのがよく分かります。水は、低きを求めて流れるもの。湧き出た水が、低いところを探し求めてこんなにうねうねしてしまったんですね。
「キャットストリート」も「ブラームスの小径」も、川にフタをしてできた道です。フタをされたいま、川だったことは一見分からないようでいて、その蛇行具合が何よりも川であった痕跡を雄弁にもの語っています。

明治神宮とキャットストリートのつながりから、渋谷川の水源と歴史について紹介してきましたが、これは決して渋谷川の全貌ではありません。渋谷川の水源や歴史を巡る旅の続きも、いずれこのコーナーで取り上げてみたいと思います。

撮影にご協力頂いた皆様

明治神宮様

参考文献
『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(田原光泰著、之潮(コレジオ))
『「春の小川」の流れた街・渋谷――川が映し出す地域史――』(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館)
明治神宮ウェブサイト http://www.meijijingu.or.jp/

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